本を読まなくなった。
元より、親やら先生やら世間から警鐘を鳴らされ続けてきたにも拘らず、本を読む習慣が全くない。
活字離れ。
何故、若者我々が本を読まなくなったのか。
子供の頃を中心に、昔は夜ともなれば、本を読んでいたらしい。
テレビがあったにしても、それは居間という場所だけの話で、父親が偉いものだからチャンネルは自由に変えられず、それをおいて唯一の楽しみといえば本だった。
しかし、今は各部屋にテレビがついていることは多いし、他にも携帯やゲーム、マンガであるとか他に手軽な娯楽が増えてきたため、本は疎遠なものになった。
電車の中ではどうか。
つい僕が幼かった頃など、本を片手に電車に揺られながら目的地を待つ姿が、今では、MDやipotなどのMP3プレーヤーで音楽を聴く姿、携帯をいじくる姿に取って代わられた。
これは昭和生まれならくらいなら誰もが感じることだと思う。
では、本を読まなくなるとどうなるのか?
語彙力が下がったり、感情表現が貧相になったり、字が読めない、書けない、想像力の低下、などだろうか。
無論、自分も感じ取れるまでになっている。
ただ、それでもなお僕が救われたのは小学生の頃、国語の教科書によく小説や小論説などが載っかっていたことだ。
授業中はある程度、暇なものである。
先生の説明を右から左に、黒板に書いてあることを丸写ししていた僕にとってはなおのこと。
しかし、他に何もやることが、いや、やれることがないのだ。(先生の目が光っているから)
そこで、出来ることとすれば、教科書で興味のある小説や論説を読むことだ。
教科書に載っていた小説や論説は、面白かった。
さすがに選定されているだけはあるのだろう。
勿論、だからといって家に帰って本を読む癖がついたかというと、そこはやはりゲームやテレビの誘惑に負けてしまうのだ。
だから、活字との付き合いは決まって授業中だけ。
教科書を読んでいる分には怪しまれることもない。
しばらく経って、そこに思わぬ効果が現れた。
授業中、勝手に読み進んだ文章は、いずれは授業範囲に掛かってくる。
それは、いつの間にか予習されていたものとなっていた。
文章の中身が解かっている分、それこそ始めて読む周りの人なんかとは理解力に差が出て、よく発言できるようになれた。
僕だけが解かるという優越感。
これが幼い頃の学習には大事だ。
思い返せば、中学の頃ともなると、国語(現代文)の授業前の休み時間は、教科書の予習に費やした。
そして、授業の合間に黙々と他の小説や論説を読む。
国語が得意教科となった。
その代わり、英語はてんでダメ。
それでも、活字という魅力にとりつかれていったのは救われたところであっただろう。
そしてまた、こういうところがやはり現代っ子なのだろう、父から教わり始めたパソコンを使い、ネットに公開されていた一つの小説に出会った。
永遠に続くかと思われるほどの量の小説。
それを前にして、僕は喜んだ。
今まで出会ってきたどんな小説よりも面白い。
故にこれほど文章量の多い小説を前にして嬉しさを感じたことはなかった。
テレビやゲームの時間は勿論、寝る暇さえ惜しみ、部屋を暗くしながらもスタンドのライトで無我夢中に読み進む。
気がつけば外が明るい、なんて時もあったりした。
そして読み終わる。
ただ、良い小説には得てして主人公かヒロイン、そのどちらかが死んでいってしまうことが少なくない。
それ故に、読み終わった後はずーんと落ち込むことも少なくなかった。
何故だろうかと疑問に思う。
登場人物の生死は、作者の裁量次第だろう。
ならば、みんなが生きて幸せになるハッピーエンドが最良ではないだろうか、と。
しかし、本を読むたびに、だんだんと、なんとなくではあるが判ってくる。
登場するキャラクターは、全てが何も作者の手の内でコントロールできるものではないのだ。
特に、長い物語や執筆中にそれぞれのキャラが出来上がってくると、このキャラの性格はこうだからこうでなくてはならない、あのキャラは歳がこうだからこうでなくてはならない、といった具合に作者の意図する範疇を超えてくるものなのである。
無論、無理やりに捻じ曲げることも出来る。
しかし、それは同時に世界観を綻ばせ、なんだか締りのないモノが出来上がってしまう。
それならば、と、キャラクターは物語の中を作者の手から離れて一人旅し、世の常であるかのように死んでいってしまうのである。
しょうがないといってしまえばしょうがない。
一方で、ハッピーエンドを迎える物語も当然ある。
僕がネットで出会った作者が描く小説は、そのどちらもあった。
やはり、ハッピーエンドの方が好い。
なんというか、えもいわれぬ浮遊感が僕の回りの世界を包む。
この感覚は一度味わったらやめられるものではない。
ただ、それを感じさせるまでの相性の良い小説に出会うのは至難の業だ。
また、模索の日々が続く。
それでも、何年かが経ち、忘れた頃に良い小説はやってくる。
ふと書店で目に留まった本、ネット上で出会う小説。
出会えたときの嬉しさは一言一遍には片付けられないものがある。
さて、そんな中で今日も一つの良作を読み終えた。
ふー、と息をつく。
物語と現実の境があやふやになる感覚、浮遊感の一因だろうか。
その物語は例のごとく死んでしまう結末(笑)
でも、今日はバイトだった。
非現実との乖離はバイトという濃ゆーい現実感に打ち消される。
また、こんな作品に出会えるのは何年後か、はたまた何ヵ月後だったりもするが。
そんな楽しみを胸に、今日はハロウィンなのでゴン太をかぶって棚卸しだ。
了
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そういえば、そろそろスカッシュ団体戦の番手戦が行われる。
狙うは3番手以内。
なんせ、3番手以内だと5ゲームマッチになるからだ。
バドミントンで鍛えた精神力が生かせる長さなのだ。
嬉しかったのは、2男の出場者が予想をはるかに上回って多いこと。
それも、記念になどというお飾り的なものではなく、誰もが実力をもった人たちだからだ。
送られてきた出場者リストに思わず笑みが零れる。
純粋な嬉しさだ。
1年前には考えも及ばなかった状況だ。
去年はなんせ、1年生だったにしても本気で狙えるのはたてっちと自分くらいのものだった。
レギュラー枠は7人、実際に戦えるのは5人。
この1,2ヶ月はとても楽しそうだ。
自分もウカウカしてはいられない。
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終わり。