現代のモラルについて
今、私が筆を執っている時点が2007/1/11であるが、どうも近年、特に2006年は未成年、特に中学生以下が「殺人」を起こすケース、そして自分を殺す「自殺」が横行し、それはまさに現代人に警鐘を鳴らす「マナーの違反」等の域をはるかに凌駕し最低限度の「モラルの崩壊」が起こっているといって、全く差し支えないだろう。
この「モラルの崩壊」が現代を黒く渦巻き、崩壊が崩壊を呼び、もはやモラルハザードスパイラルの状態と成りかけている。当然、我々大学一年生ではあっても成人は間近である日本に生きる一個人として考えるべき問題であり、また解決方法を見出したらそれまでではなく、しっかりと実践していかなければならないところまで、事態は差し迫っているといえる。
「殺人」は、法が最大の重罪と位置づける犯罪であり、そして人々にとっても最大の禁忌である。だから、これほどまでに「殺人」が横行するのはモラルの最低ラインが崩壊している、と言えるのであり、であればまずは原因を探っていかねばなるまい。
「殺人」にしろ「自殺」にしろ、その共通点は「命」をぞんざいに扱っている、ということだ。ならば、まずは「命は大切だ」と教育せねばなるまいが、この教えに対して子どもは「何故人を殺してはいけないの?」と問うのだ。それに我々教える側は「人が死ぬとその周りの人たちが悲しむから」と答える。ここまでは昔っから代々伝わってきた習わしであろうし、大体の子どもはそれで納得する。ただ、現代においてはちょいと勝手が違い、ひねくれた子どもがこう言うのだ、
「あいつ(自分)が死んでも、悲しむ人なんていないよ」
と。
さて、これら子どもの重大犯罪が文面に載るにつれ、メディアを始め評論家やら教育者やら政府関係者から、巷の人々までがこれを批判し、原因を探り、解決しようとする。「何故、子どものモラルが低下しているのか」に対し、
・ 学校の教育のやり方が悪い
・ 家庭での親の教育が悪い
・ 外で遊ばず、ゲームばかりをして人生はリセットできるものだと思っている
・ 暴力的なゲームが悪影響を及ぼしている
など、様々な意見が飛び交うし、では殺人を起こした学校の校長に責任を取らせろ、暴力的なゲームはすべて廃止だ、先生がもっと授業で道徳を説くべきだなど、まるでその場しのぎの対策が取られていて、これでは何の解決にもならない、と私は思うのだ。
上記の意見はいわゆる「枝葉末節」であり、大事な根っこの部分の解決には至っていない。というのも、そもそもこれらの意見を言う人は事の原因が正しく見えていないのだ。たとえば、暴力的なゲームにしろ確かに目を覆うばかりのシーンはあるが、しかしそれが殺人の意志の芽生えに繋がるとは、(精神的に)健康な子どもに対して言えば到底ありえない。普通なら現実とゲームの世界を割り切って考えられるだろう。それを真に受ける子どもが居て、殺人を起こしてしまうならそれは子どもに原因があるといえそうだ。だから、この対策は事件の予防に一理はあるとは思うが、それでも根本原因の解決にはなっていない。
さて、それでは原因とは一体何であろうか。まず、根本といったからにはっまずは赤ん坊から見ていきたいのだが、何もこの世に生れ落ちた時点でまさか原因があるとは言えない。問題はその後であって、順を追って見てみよう。まず、出産後、赤ちゃんは親によって何日間かは育てられる。が、まずここで第一の原因が発生してくる。現代の世情によって生み出された形態「共働き」により、居る筈の母親は居ず、赤ちゃんにとって必要十分な身体的接触を持たない保育施設に預けられたり、あまり傍に居てあげられていないときがある。これが大きな原因の一つで、学説によれば0〜1.5歳の間に赤ん坊は身体的接触を通した共生・一致感覚(つまり心の安定根作り)が芽生える時期なのである。すなわち 「何かして欲しい時、誰かがすぐに応えてくれる」という感覚の芽生えである。
では、どうすればその共生・一致感覚を芽生えさせることが出来るのだろうか?それは、赤ん坊が泣いた時、母親がすぐに何かを察知して(例えばおしめが濡れている・お腹が減っている等)対処する、つまりは応えてあげれば良いのだ。
そして、今一度現代の状況に立ち返るが、先ほど述べた通り、「共働き」化がネックとなって赤ちゃんの呼びかけに十分に応えてあげられていない場合が少なからずあるのが現状だ。だとすれば、ここでまず一人の子どもに心の安定根が張られなくなってしまっているのがわかる。こうなると、育った子どもは精神的安定が得られず、「私が居なくなっても誰も悲しんではくれない」となり、またその感覚は他人への共感の心を鈍らせ、ひいては「自殺」「殺人」へと最悪は繋がってしまう場合もある。これがまず一つ。
そしてまた、原因の一つに大家族から「核家族」へと形態を変える日本の家族のあり方がある。大家族であれば、母親が忙しいときにも祖母が孫である赤ん坊の面倒を見てあげられるが、核家族にそのような余剰人員は居ない。
そして核家族はそんなに大きな家は要らない。そして金額面から核家族はこぞって「マンション」へと集まってくる。この「マンション」という空間がまた難儀なものである。
左の図が大家族の住む家の例であり、そして右の図が現代のいわゆるマンションの一例
である。矢印は行き来できるところであり、またそれぞれ中央手前に位置するのが廊下である。昔は例えば左下の部屋の人はトイレに行くのに一度、北の部屋を通ってからでないと行けない。しかし現代のマンションでは部屋を出てすぐそこにある。つまり、誰とも会わなくても良いことになる。
これはどういうことか。15歳前後の青年期、子どもは自我同一性を確立する時期。つまりは心の大黒柱が育つ時期である。自我同一性とは、噛み砕いて言えば「自分とは何か」がわかるということであるが、その「自分はどのようなものなのか」は比べられるものが、つまり物差しが無ければ図れない。その物差し代わりになるのが「他者」の存在であり、ゆえに「他者」が居て始めて「自分」「自我」が芽生える。
しかし、この右の核家族が住むマンションでは他者と会う機会が少ないどころか、昔はふすまであるが今は「鍵付きドア」であり、例えば親の話が気に食わなかったりするとすぐに自分の部屋に引きこもることが可能で、全く以ってそんなところで自我が芽生えるはずは無い。
さらにこの「マンション」の最近の形態では、完全防音だとかで隣の家とシャットダウンされ、隣に誰が住んでいるのかがわからない状況がままあり、療養であるはずの玄関付近の掃除は昔なら互いに気遣ってやったもの、今ではマンション専属の掃除のおばちゃんがやってくれていて、これは正に地域社会の崩壊であり、ますます個人は個人として孤立し、「子の個としての孤立」が目立つようになる。
そして、また「共働き」に話を戻すが、共働きである家庭では子が学校から家に帰ってくる時間、当然親は居ないので「ただいま」「おかえりなさい」の会話が無く、個は他者の存在は希薄であると認識してしまう。
さて、以上の根っこの部分である幼児期の「心の安定根」と幹の部分である青年期の「心の大黒柱」が内に共生する子どもは大きな葉を沢山付け、健やかな精神を身につけているはずだが、現代の「共働き化」と「核家族化」によって、それはもろくも崩れ去り、自我同一性の拡散が起こり、精神的に不安定な子どもが育つ。
ところで、モラルとは「他者の共感できる心」と「自らを律する精神」が無ければ成り立たないと思っているのだが、まず、この「自我」が成り立っていないのに他者を想うことができようか。また、「自我」がなければ自立はなく、自律も無し。以って「殺人」「自殺」が横行するのであり、つまりモラルハザ−ドが起こるのであると思う。
対策としては、ずばり言ってしまうが事情が無い限り母親は働かずに家にいるべきである。というのも、これは幼心から思っていたことで、理屈無しにも肌身をもって感じていたことでもある。また、別に「父親」が家に居る、というのでも悪いわけではないのだが、
やはり子どもを育てるのには「母性」がカギになってくるのではないかと睨んでいる。理屈で応えられないのは申し訳ないが、あえていうならば父親は自らの乳を飲ませて上げられないだろうし、また、母親が持つ子に対しての「無償の愛」とも言うべき自らの利益を全く省みずただ一心に与える愛情が、それの理由として言えそうだ。
そして「核家族化」に対しては、まずは親が主導となって地域社会、つまりコミュニティを創造していくしかない。親たちが創造した地域社会に子どもは溶け込み、自然と個が成り立ち、またお互いに必要な時に手助けし合えるはずだ。
さて、敗戦を経験し、今まで定着していたモラルの崩壊、そしてモラルが消えた無秩序のこの世に新たなモラルを模索せよ、とあるが、モラルとはそれほど気負って追うものであろうか。モラルとはひどく昔からこの今まで、土台となるものは全く変わらずにきているのだと思う。が、いまその土台そのものが崩れつつあるのも事実であり、それが今の子どもの悲惨な事件へと繋がっているのではないだろうか。誰のために、何のための、という高等なモラルはまずは置いておいて、この急激な時代の変遷に伴う自我の崩壊をまずせき止めなければ、いつまでたってもモラルのピラミットは上手く建たないのであろう。
以上。