私たち“人”の心には「○○しなくてはならない」「○○すべきである」といった倫理感が存在する。
例えば、若者であればお年寄りを大切にするべきであろうし、
例えば、男性であれば女性に優しくすべきであろうし、
例えば、親であれば子を守り、育てなければいけないだろう
大まかではあるけれど、そういったものだろう「倫理観」はごく一端の人たちを除けば当然ある心の動きであるし、またそう幼少の時より教えられてきた。
だが、それと同時に「妥協」というものも覚え、学んできたことも確かだろう。
“人助け”は人としてすべきであろう。
人が倒れていたら、助けてあげるのが普通だし、当然だ
と、文字では簡単に綴れるし、言葉にも簡単に出せる。
しかしだ。
TVの向こう側で
例えば海外の諸国での紛争に巻き込まれている人が倒れていたら、
海外の貧困な地域の人々が飢えに苦しんで倒れていたとしたらどうだろうか。
これは極端な例であるけれど、何しろ“人”は自分に取り巻く“環境”によっていとも容易く倫理観は失われ、妥協の道へとひた走る。
無論、こうしてPCの前で日記を綴り大学生活を満喫している私も例外ではない。
地球温暖化によって干ばつや水害の出ている国があるのは知ってはいるが、あたかも現実の世界ではないことのように頭の中では分け隔て、暑い日には冷房を効かせている。
でもそれ(地球温暖化による被害)は、れっきとした今生きている現実での事。
現実なのである。
近年までマスコミを始め、日本中で騒がれていたダイオキシン問題。
今ではほとんど聞くことがなくなってしまったが、このダイオキシンの原因の塩化ビニールを含む、我々にとって最も身近なものの一つであるプラスチック。
これをきちんと分別している人はどれだけ居るのだろう。
今でこそ、被害は出ていないこの日本ではあるけれど、人間以外の生物、魚介類や昆虫のオスのメス化など、特に海外では確実に進んでいる。
ベトナムの地域の方々の枯葉剤によるダイオキシン被害は現実のことだ。
“奇形児”という言葉は知ってはいるが、その言葉の本当の意味を、現実を自分は知らない。
ドキュメンタリー番組や、教科書、資料集や資料館での展示は、見ているようで見ていない自分が居る。証拠にとっさにあの時目の当たりにした映像や写真を見た時の“ゾッ”とした気持ちを思い出すことは出来ない。
また身近な話をすれば、一昨年から思っていたが、毎年夏になるとうるさかったセミの鳴き声を、あまり聴かなくなったのは気のせいなのだろうか。
鳴くセミはオスだけなのである。
ゴミの日に集まった袋の大群が放つあの悪臭。
あらゆる人があらゆる物を捨てるコンビニのゴミ箱のそれは相当だろう。
でも、誰かが処分しなければ当然ながらそれはなくならない。
私たちがゴミ箱に捨てて、ごみ収集場にぽいと投げ捨てて、それで無くなるのではないのだろう。
ゴミ収集員さんが、店であればその店の従業員さんが、そしてその後も幾人の手でもって処理して初めて処分される。
それも、燃えないゴミに関しては今もどこかでゴミの埋立地は広がっている。
この現実と自分の行動の乖離はどうしたら良いのだろう。
例えば、海外で人が倒れているから一先ず、助けに行ったとする。
しかし、その自分の周りの人々は迷惑を被るだろうし、また他の国で飢えに苦しむ人が居たとしても、まさか自分の体を二分することは出来ないだろうから助けには行けないだろう、何にせよ倫理観に忠実に従うことは非現実的だ。
遅刻してしまうから電車の乗り換えの時、全力で疾走する。
学校で「廊下は走ってはいけない」と教わってきた。
同学年ならまだしものこと、小学校高学年の子と、小学校低学年の子がぶつかり合ってしまったら、高学年の子は良いだろうが低学年の子は擦り傷どころでは済まないだろう。
学校の廊下ってのは、人が密集していて走ると危ないのは考えるまでも無い。
駅も同じだ。
もしかしたら小さな子どもが、年寄りが歩いているところを大の大人が走ってきて撥ね飛ばしてしまうかもしれない。
判ってはいても、遅刻したくはないので、試験に、会議に遅れたくないので走ってしまう。
可能性は1%にも満たないであろうし。
しかし0%ではないし、事故が起こってからでは遅い。
この倫理と妥協の境を見極めることが難しい。
自分の納得のいく生き方ってのが難しい。
……それでも、結論を出さなくてはならない。
考えているだけでは何も始まらない。
……大切なのは自分の“分”の中で出来る限りを尽くすことだと思う。
自分の出来ること、いつもは面倒で省いてしまうことをやること、日常の中で他人のためにちょっと良いことをしてあげること。
今はこれが限界であり、適度であると思う。
考えると、親にメシを食わしてもらっていて、海外の人を助けるなんて、大切な勇気ではあるが、学生である自分の“分”ではない。
ちゃんと自分で稼ぎ、自立できて初めて、社会の大きな役に立てば良い。
それから何事にも感じる心を持つこと。
そして、何事にも感謝すること。
それが今は大切だろうし、将来の倫理観を育てることなのであろう。
『“人”は支え合い、特に学生の身分である自分は支えられて生きているのだろう』
年を負うごとに、日々生きていくごとに、そのことを実感できるし、実感できる自分がいるのは少し安堵できるものではある。