記
2010年8月12日
夏休み後半の私は、上田に居る友人宅に尋ねた。
近くでスカッシュの大会が行われるためだ。
会場になるコートで友人と、久々のスカッシュに興じる。
約2か月ぶりとなる私の体は、2時間もすれば悲鳴を上げ、練習は早々に切り上げる。
休憩の最中、友人が口にする。
「お前、更に濃くなってないか?足の。どうすんだよ、こんなに濃くしちゃって」
大きなお世話だ。
記
2010年8月29日
今日は、毎週通う整体へとやってきた。
体の気になる部分は、と問われ
「足首が若干痛みます」
そう答えた私に、施術師は原因がわからず店長を呼んだ。
いかにも関節や筋肉に精通してそうなガタイの良いその人は、私のスウェットの裾をめくると突然、
「あー……、毛がすごいですね」
と意味不明の言葉をその厚いくちびるから発する。
いや、厳密に言えば意味がわからなかったのではない。
私が、その言葉を理解するために必要な頭の回転が追いついて来ていなかっただけなのだ。
もっと言えば、そのあまりにも唐突かつショッキングなフレーズに私の脳細胞は思考することを放棄したのである。
記
8月30日
もう嫌だ。
今月になってやけに話題に上がる私のそれ。
そう、確かに気付いてはいたのだ。
ただ、それでも許容範囲だと思っていた。
……いや、本当はもう気付いて、気付いていないフリをしていただけだったのかもしれない。
高校時分は回りの人達と同じか若干濃い、そんな程度だったのだ。
そしてそれを、私は誇りにさえ思っていた。
裾から覗くそれは、ひょろっとした少々頼りないガタイである私の中で唯一“男っぽさ”を垣間見せるのだ。シンボルだと言ってもよい。
それから5年。
月日が経つごとに、その足は「毛」という名の草を足いっぱいに生い茂らせる。
しかもそれは季節を問わず、むしろ冬はさらに勢いを増す。
……今一度、自分の足を見つめてみる。
濃い。
確かに濃くなっている。
記憶の中の足は、まだ高校生の時のまま。
あの適度な濃さで、私の記憶の中には留まっている。
それがどうだ。
記憶の中のそれと今、目の前にあるそれは薄いだの濃いだのではなく別次元のものである。
おかしい。
記憶とは全く違った濃さに、違和感を感じる。
いつの間に、こんなに黒さを増したであろう私の足は、もはや「誇り」という範疇には無く、
「恥辱」の対象にすらある。
記
8月31日
脱毛:現象として人もしくはそれ以外の動物に生えている毛の一部ないし全部が抜けてなくなること
(wiki:「脱毛」より)
決定的な出来事が起こる。
先日の手記で足の痛みがあることは綴ったのだが、
実は例の店長からあるアドバイスを受けていた。
テーピングによる筋力の補助により、痛みを和らげ、負担を軽くする、というのである。
施術後、足の裏にやってもらったが、気になるのであればふくらはぎの外側もやると良いと言われた。
さすが、関節や筋肉に精通してそうなガタイなだけはある。
さっそく、テーピングを行う。
だが、貼れない。
何度貼ってもすぐにはがれてしまう。
「不良品か?」
と頭をよぎる不信感は、一瞬にして虚脱感へと変わる。
気付いたのだ。
いや、思い出したといったほうが正しい、そう原因は私の足に生い茂る雑草である。
私のソレはファッション性のみならず、機能性すら私から奪うのか。
メーカー品のその十分な粘着性をあざ笑うかのように、私の毛達はテーピングを頑なに拒む。
こんなに自分(の足)を呪った事はない。
ショックで言葉すら出ない。
「脱毛」という陰鬱な響きでありながら甘い誘惑にとらわれてしまう自分が情けないと感じる一方で、
「もういいじゃないか」とあきらめにも似た感情も同時に、いや、むしろ今は後者を強く抱きつつある。
逃げたい。
逃げ出してしまいたい、この鬱蒼と生い茂る黒いさとうきび畑から。
目覚めると、人気俳優のようなあの薄い足になっている、という現実にはありえない妄想を抱くことでやっと、
私の自我は保っていられる。
――私の心の中ではすでに、脱毛へのカウントダウンは始まっている……。